For the ocean, for life

しあわせな食卓と、いのちの未来の物語。

文字サイズ

海で生きていく

宮下奈都

 ミナトが来たのは、秋の初めのまだ海に夏の名残のある頃だった。遠くの街に住んでいて滅多に顔を合わせることのないいとこだ。しばらくこちらにいるらしい。
「久しぶりだね」
 笑いかけても、ミナトはふいっと目をそらした。
私と同じ小学五年生のはずだけど学校はどうするんだろう。不思議に思っていると、お母さんがそっと私を呼んで、ミナトの前で学校の話はしないでといった。すごく勉強のできる学校に入ったけれど、通えていないらしい。
 翌朝台所をのぞくと、お母さんとミナトのお母さんが朝ごはんの支度をしていた。おばあちゃんは朝早く漁に出るおじいちゃんと一緒にもう朝食を済ませてしまっている。
「朝ごはん、食べよ」
 ひとりで居間にいたミナトに声をかけたら、いったんは立ち上がったものの、顔を曇らせてまた居間に戻ってしまった。
「魚は目が怖いから嫌だ」
 パンがいい、という小さな声が聞こえた。鯵の一夜干しと卵焼きのごはんなんて最高なのに。ミナトとどう接したらいいかわからなかった。
 家から五分も歩けば浜に出る。陽射しは強くても風はもう涼やかだ。
 ミナトはなんにもできなかった。ここへ来て一週間が経つけれど、いつもなんにもしていない。家事を手伝ったりすることもない。自分が食べたお皿を流しに運ぶこともない。布団を敷いたり、朝にはその布団を上げたりするのも、誰かがやってくれて当然だと思っているみたいだ。ありがとうもいわないし、そもそもほとんど話もしない。朝ごはんを食べないのもよくない。そしてなにより、ずっと楽しそうじゃないのがよくない。ぜんぜん仲よくなれそうにない。
 そう思いながら歩いていたら、岩場の陰にミナトがいた。
 うわ、と同時にいった。声が揃ったのがなんだかおかしくて、少し笑った。見ると、ミナトも笑っていた。
「何してるの」
「何もしてない」
 素直な声だった。私も、何もしないでここにいるのが好きだ。でも、今日はハマナスの実を摘みに来た。
「これ」
 ゴムの手袋の片方をミナトに渡し、ハマナスの赤い実をひとつもいで見せる。
「棘があるから気をつけて。実を採ったらここに入れてね」
 傷だらけの白いプラスチックのボウルに採った実を入れていく。
「何これ、食べられるの?」
「ジャムにするんだよ」
 へえ、とだけいって、あとは無言で実を摘みはじめる。太陽が照って、潮の匂いが濃い。黙々と摘んでいると、あっという間にボウルに半分くらいたまった。でも、まだだ。ミナトの朝ごはん用にもうあと百個くらい欲しい。
「おばあちゃんちに来ることになったとき」
 ミナトがいった。ハマナスの向こうにいて顔は見えない。
「海のそばでどうやって生きていくんだろうって思った」
 どうやって、というなら私は海から遠く離れた街でどうやって生きていけるのか見当もつかない。
「でも、だんだん、ここにいるのもいいような気がしてきた。毎日、なんにも考えないで海だけ見て暮らすんだ」
 ミナトがふりかえってはっとした表情になったから、きっと私は怖い顔をしていたんだと思う。
「なんにも考えないで暮らしてる人なんかここにはいないよ。海のことも、魚のことも、天気のことも、家族のことも、それにたぶんみんなそれぞれ学校だとか、友達だとか、いろんなことを考えながら暮らしてるんだよ」
 しまった。ミナトの前で学校の話はしないことになっていたんだった。でも、ミナトは、ごめん、といった。
「俺、うらやましいんだ。海に負けない漁師のおじさんたち。めちゃくちゃ強そうで、日焼けしてて、力持ちで、かっこいい」
「なりなよ、ミナトも日焼けして力持ちに」
 私がいうと、ミナトはサンダルのつま先で砂を蹴った。
「だけど、どんなに日焼けしたって俺は強くはなれないんだ。いつまでもうじうじ考えちゃうだろうし。それでも漁師になれるのかな」
「なれるさ」
 後ろから大きな声がした。おばあちゃんだった。
「昔は、年に何度か海がぎらっぎら輝くときがあったもんだよ。あれをあんたたちにも見せてやりたいねえ」
 太陽に照らされて海が光るのなら、いつも見ている。
「海面すれすれまで魚の群れが来て、それが光り輝いて見えるんだよ。まぶしくて、神々しいくらいでね、子供心にも、ああ、海はすごい、命の塊だと思った」
 海が魚で光るのを、少なくとも私は一度も見たことがない。それを見たらミナトも魚が怖いなんていわなくなるに違いない。
「私、漁師になりたい」
 ずっと胸にあったことを初めて口にする。おばあちゃんはうれしそうに顔をほころばせた。ミナトは考え考えいった。
「もしかして、魚の調査をするとか、気象予報が正確にできるようになるとか、別のやり方で海で働くこともできるかもしれないね」
 おばあちゃんとふたり、ミナトに向かってうなずいた。私たちは海で生きていくことができる。帽子をかぶっていないミナトの鼻と頬のあたりが日に焼けてもう赤くなっていた。

みやした・なつ◎1967年福井県生まれ。2004年「静かな雨」が文學界新人賞佳作に入選し、デビュー。16年『羊と鋼の森』で本屋大賞を受賞。主な著書に小説『スコーレNo.4』『よろこびの歌』『誰かが足りない』ほか、エッセイ集『とりあえずウミガメのスープを仕込もう。』など多数。

編集/POW-DER デザイン/スーデザインズ イラスト/タカヤユリエ
制作/朝日新聞出版メディアプロデュース部ブランドスタジオ 企画/AERA DIGITAL AD セクション